茶道の歴史~戦国武将達のド派手なギャンブルから、千利休の侘び寂び文化へ~

元々は戦国武将たちのド派手なギャンブルだったのが禅僧たちによって影響を受け「侘び寂び」の精神的文化となり、かの有名な千利休によって大成されました。

もくじ:
1. お茶は朝廷の貴族や高僧などの間で精神を研ぎ澄まさせる薬として飲まれていました。
2. 侘び寂びとは?最も有名な茶聖・千利休が茶道を洗練させ、大成させました。
3.各時代の最先端の人々に受け継がれた茶道には、現在50以上の宗派があります。

1.お茶は朝廷の貴族や高僧などの間で精神を落ち着け集中力を高める薬として飲まれていました。

お茶は、約1300年前に宋の国から入ってきました。日本は平安時代(794-1185)の初め頃で、宋に留学した僧たちがお茶を持ち帰りました。当時は宮中で天皇や貴族など身分の高い人々のみが薬として飲んでいました。
また僧侶が寺院でお茶を飲んで精神を目覚めさせ、瞑想に集中するために服用しました。
その頃のお茶は「餅茶(べいちゃ)」又は「団茶(だんちゃ)」と言われ、丸めて発酵させた団子状の茶葉を削って煮出して飲むものでした。

鎌倉二代目将軍の実朝が、二日酔いの薬として
飲んだという記録もあるんじゃよ。

今でもお抹茶を「一杯、二杯」ではなく「一服」「ニ服」」と
数えるのは、お抹茶が薬として飲まれていたからなんですって。

今から約700年前の鎌倉時代(1185-1333)になると、僧侶の栄西が留学先から持ち帰った苗木から京都の栂ノ尾(とがのお)で国産のお茶の栽培が始まりました。この頃には、今のお抹茶に近い形になっていたようです。

2.茶聖・千利休【SEN NO RIKYUU】らが提唱した、侘び寂び【WABI-SABI】とは?

400年~500年程前の戦国時代(1467‐1615)になると、織田信長ら戦国武将が豪華な茶会を開くようになりました。
その頃の茶会は「闘茶(とうちゃ)」と言われ、高価な唐物(からもの)高麗物(こうらいもの)といった外国のお道具を賭けてお茶を飲み比べて栂ノ尾産とそれ以外の産地を当てるド派手なギャンブルでした。
贅沢な食事が出され、お酒も飲まれていたようです。
多くの武将たちが、高価な海外の茶器に夢中になり一碗のお茶碗が城ひとつ分の価値があるなどということもよくありました。

織田信長、豊臣秀吉、 伊達政宗、 細川忠興、古田織部、金森宗和など茶人としても知られる戦国武将たち。

戦国時代に入る前の室町時代。8代目将軍足利義政は、 から帰った留学僧に簡素で落ち着いた禅宗様式の「銀閣寺」を作らせました。3代目の足利義光が作った豪華県蘭な「金閣寺」とは対照的な趣きです。


足利義政に仕えていた禅宗寺院の大徳寺村田珠光(むらたじゅこう)は 義政に進言してギャンブル性の強い闘茶をやめさせ、代わりに簡素で精神性を重んじる禅宗の影響を受けた茶の湯をすすめたと言われています。

そして堺の商人であった武野紹鴎(たけのじょうおう)は大徳寺から印可(いんが=悟りの証明書)を受け、豊臣秀吉に茶道指南役として師事します。

その後を受けたのが、かの有名な茶聖と呼ばれる千利休(せんのりきゅう)です。利休も大徳寺から印可を受け、豊臣秀吉に師事します。





彼らは、「侘び寂び」などの価値観を提唱しました。


侘び寂びとは?

侘び寂びの価値観は、平安時代の万葉集に出てくる藤原定家の歌に表れているといいます。

見渡せば 花も紅葉もなかりけり

浦の苫屋の 秋の夕暮れ

<見渡すと、花の季節も紅葉の季節も
すでに終わりを告げている。

海辺の粗末な葦葺きの小屋があるばかりの
秋の夕暮れの風景である。>

そう、桜も紅葉も盛りを終えて、ただただうら寂しい秋の風景に表わされる風情が「侘び寂び」だといいます。

日本人の昔からの美意識においては、質素で完璧で不完全、左右対称ではなく不均衡、時を経て得られた侘しさや静けさをも愛するという価値観があります。

古くは平安時代の「もののあはれ」、室町の「幽玄」「侘び寂び」、江戸の「粋」。そして現代は「かわいい(!)」
いずれも豪華で完璧なものではなく微妙なもの、かそけきもの、不完全で、守ってあげたい小さくて未成熟なものなどです。

これらには、大陸から離れ島国に逃れた先で小さなものに価値を見出し、己の内的な人生を「足るを知る」ことで豊かに満たしてきた日本人の価値観があるように思います。

▶「満つれば欠ける!?」日本人が十三夜の月を愛する理由とは

先ほどの金閣寺と銀閣寺に代表されるように、室町時代から戦国時代にかけては金ぴかの派手派手モード(ばさら大名や傾奇者、狩野派の金の濃絵など)とシックな侘び寂びモード(禅宗様式の無駄を省いてあるものを際立たせる建築物や能など目に見えない世界を題材にした芸能、水墨画など心象的・抽象的な画風)が同時に存在していた時代です。

時の為政者である豊臣秀吉は、千利休の価値観に頷く一方で北野天満宮のお茶会といった大規模な催しを行い、持ち運び可能な「金の茶室」を作るなどしました。

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一方で、千利休が提唱したのは究極まで狭く質素なわずか2畳の「待庵(たいあん)」に見られるような茶室でした。

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ある時はまた、庭に咲き誇っていた見事な朝顔を一つの花を残して全て切り落として見せました。

究極まで無駄を省き、本当に見たいものだけに集中することができるようになる禅宗様式の思想でしょう。

本当に「ときめく」ものだけを残して、他は全て感謝して手放すという「こんまり流」お片付けメソッドなどは、現代の禅に通じるものがあるような気がします♪

利休らはまた、唐物高麗物といった外国の茶道具の代わりに日本独自の和物の価値観を強調し「和漢の境を紛らかす」と提唱しました。

竹という身近な材料を削って手作りの蓋置や茶杓を作りました。簡素な材料であっても利休の審美眼は素晴らしく、例え部屋中に無数の竹の蓋置があってもその中から利休がひとつ選んだものは、やはり後から誰がどう見ても一番美しいのだそうです。

利休は高価な高麗物の茶碗に代わり、日本人の陶工である長次郎に「黒楽茶碗」、「赤楽茶碗」を作らせます。

※井戸茶碗は、朝鮮では普段使いの井戸の水を汲むのに使われていた茶碗でした…。普段使いの雑器ですらそこまでの価値があるのですから、本国に行けばさぞ素晴らしいお宝がざくざくとあるに違いない…。そう思ったのでしょうか・・・。

今ここにあるものに満足を見出す、「知足(ちそく=足るを知る)」「侘び寂び=華やかなものへ執着を手放し、今ここにあるもの=冷え枯れた境地に美を見出す」を説く千利休は、朝鮮出兵に反対をします。

しっくりと手に馴染み、まるで日本を象徴する漆のような暖かみを持ちながらも美しく深い艶を魅せる黒楽茶碗。

それらはとても素晴らしかったけれども、秀吉は唐物や高麗物への憧れを捨てきれなかったようです―。

ヨーロッパから来ていたキリシタン達が奴隷として本国に日本人を捕らえて送るなどしていた当時の情勢もあり、秀吉は逆に打って出ることに。

1591年、朝鮮出兵に反対を唱えた千利休は、切腹をさせられます。

そして1952年、ついに豊臣秀吉は朝鮮へと出兵することになりました。
当時無防備だった朝鮮の城を次々と攻め、多くの陶工たちを無理やり日本へ連れ帰り、町を作ってそこで陶器の茶碗を焼かせ、日本には多くの焼き物が生まれました。

千利休の切腹には様々な説がありますが、筆者にはこの件が理由であると思えます。

ESSAY: なぜ千利休は秀吉に切腹させられなければならなかったのか?金魚的考察<COMING SOON>

ESSAY: 平安時代の「もののあはれ」、室町の「幽玄」、江戸の「粋」…そして現代は、 かわいい!?時代ごとの日本人の価値観とその共通点とは。<COMING SOON>

3.茶道は江戸、明治、昭和にと継承され、現在は500以上の宗派があります。

徳川家康が天下を統一し江戸幕府を開くと200年余り続く泰平の世が訪れます。
その中で、茶道は一般の人々の間でも愛好されるようになります。

千利休の子孫、養子が生んだ裏千家と表千家、武者小路千家の三千家を始めとし

宋徧流、江戸千家流、藪内流、遠州流、三斎龍、肥後古流、有楽流、石州流、不昧流、宗和流、小笠原流古流など様々な宗派が生まれました。

近代化後、江戸時代の終わりから明治時代にかけて審美眼を持つ益田鈍翁(1848‐1938)に代表されるような財閥が名物道具を収集しました。

第二次世界大戦後になると、茶道は女性達の花嫁修業としてもてはやされるようになります。
現在、茶道といえば女性の文化というイメージがあり、日本では文化教育の一つとして茶道【茶道】を修行し、楽しんでいる一定年齢層以上の女性が多くいます。

戦国武将、財閥、そして戦後の女性たちー。茶道はいつの時代も最先端の、時代の中心人々のとなる人々の間の文化なのです!

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