お抹茶茶碗には、その産地や土・釉薬の種類、技法、デザイン等により様々な種類があります。

中でも茶人の間では「一楽(いちらく)・二萩(にはぎ)・三唐津(さんからつ)」という言葉があり、楽焼は最も代表的なものとされています。

では、なぜ楽焼【RAKU-YAKI(pottery)】が最も重要と考えられているのでしょうか?一緒に見ていきましょう。
1. 黒楽【KURO-RAKU】とは?

※楽【RAKU】という漢字は古い鈴の楽器の形、または木の切り株の上に乗った人が両手に鈴をもって踊っている様子を表している言われています。

黒楽茶碗の表面は、滑らかに柔らかく輝く黒い釉薬によって高台まで全体が覆われています。 なおこの漆黒は京都の鴨川の黒石を釉薬に混ぜ込み、それをかけては乾かす作業を十回以上繰り返すことによって得られます。
仕上げに高温(約750℃~1100℃)で短時間焼成し、窯出し後急冷することで、独特の光沢が生まれます。
まるで黒い漆器塗りのような艶やかな漆黒には、お抹茶のうぐいす色がとても映えます。

また、その形は人工的ではなく、手に持った時に自然に心地よく馴染む軟らかな曲線を持っています。
これはろくろを使わず職人が手びねりでその形を造っているからです。低めの温度(750〜1100℃程度)焼き上げることもこの陶器を軟らかにすることに役立っています。
また、高台などは手作業でひとつひとつ小刀を使って削り出しています。

また楽茶碗は利休が「茶のための茶碗」として考案・制作したため、お茶を楽しむための工夫が随所に凝らされています。
例えば、楽茶碗の縁はわずかに高低差があり、まっすぐではありません。これは、お茶を点てる際に茶杓や茶筅を乗せた際に落ちないよう、意図的に波打っているためです。

さらに、茶碗の内側には茶筅を動かしやすくするための「茶せん摺」と呼ばれる段差と、飲み終わった後に茶碗に残ったお茶を美しく見せるための「茶溜り」と呼ばれる窪みが設けられています。

楽茶碗には黒楽の他にも、燃える炎のような赤楽茶碗があります。

どちらも茶聖と言われる千利休が16世紀の戦国時代(安土桃山時代)、豊臣秀吉の頃に瓦職人の長次郎に焼かせることによって生みだされました。
2.なぜ、茶の湯では黒楽【KURO‐RAKU】が重要視されるのか?
茶道に触れたことのない方にとっては、この最も静謐で礼儀正しく平和的な文化が、日本が最も激動の戦国の時代(1467‐1590)に生まれたということが意外に思われるかもしれません。
それは室町幕府の権威が失墜し、戦国武将と呼ばれる各地で力をつけた豪族が領地をめぐって天下を獲るべく群雄割拠した時代でした。
そんな中、農民の家に生まれついた豊臣秀吉が織田信長の後を受けて関白という天下人になりました。


はじめは千利休も茶道指南役として信長に仕えていましたが、そのまま秀吉の茶道指南役となりました。

その頃、戦国武将たちの間では闘茶(とうちゃ)と呼ばれるものが流行していました。
それは国産のお抹茶、宇治の栂尾(とがのお)産とそれ以外の産地のものを非常に高価な高麗や唐の唐物【KARAMONO】と呼ばれる今でいう中国や朝鮮半島の外国の茶道具を賭けて当てるといういわばギャンブルで、大広間で豪華な食事やお酒も飲みながら行われるものでした。
全体的にも、狩野派の金地に描かれた濃絵や室町3代将軍の足利義光が建立した金閣寺に代表されるように、華やかで金ぴかのゴージャスな文化が流行でした。
そしてほぼ同時期に、室町6代将軍足利義政が好んだのは質素な書院造や銀閣寺に代表される、仏教の禅宗に影響を受けた東山文化もトレンドでした。
千利休の師の師である村田珠光も、質素な小間の茶室での侘び寂びのお茶を提唱していました。


しかし豪放磊落な派手好みであった秀吉は、金の茶室を作らせ(ここでは詳しくは述べませんがさらに各国がヨーロッパの強国に植民地にされているのに対抗するため、という世界情勢などもあったのですが)、朝鮮に出兵して高価な茶道具を生み出す陶工を大勢連れ帰るなどしていました。

それに異を唱えたのが千利休です。
最初の出兵を終え、更に二度目の朝鮮出兵を行おうとする秀吉に反対し、利休は高価な陶器を外国で得る代わりに、秀吉の居住地であった聚楽第の足元の土や先述のように鴨川の黒石を釉薬に使い、瓦職人であった長次郎に国産の黒楽茶碗と赤楽茶碗を焼かせました。
足元を見よ、と言わんばかりに。
秀吉はそれらの茶碗、特に赤楽を気に入りましたが、やはり二度目の朝鮮出兵を決行。
そして千利休には切腹を命じました。
千利休の切腹の理由には様々な説があり、長年の謎とされていますが私にはタイミング的にも、初回と二度目の朝鮮出兵の間であったこともありこのことが大きな理由のひとつなのではないかなと思っています。
つまり、千利休は命がけで戦争を止め、”足るを知る”ことを訴えたのではないでしょうか。
足元の土や釉薬を使うお茶碗、竹を削って自分で作る茶杓などの道具。
最終的には1畳半の小さな小さな茶室。
「壺中日月長し」という禅語があるように、外に豊かさを求めれば果てしなくきりがないが、心の内側に向かうことを極めれば、たとえ壺の中のような狭く小さな空間でも、一日中心豊かに遊んでいられるからの。

そしてそんな心持ちを世界中の人々が少しずつでも持つことができたら、世界から戦争はなくなるのかもしれません。
四百年前の日本も世界も争いが絶えなかった戦国の時代には、残念ながら平和を願う千利休の願いは実現しませんでした。
しかし現代、誰もが茶会に参加し千利休らの茶人の先駆者達が残した平和を願う数々の仕掛けを体験することにより、異なる国の人々が膝をつき合わせてお抹茶を頂くという経験が、世界の平和に近づくことでしょう。
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